A-THUG:高く広い世界について

「載せるのはスケールの上 乗っかってるのはベンツの上 上とか下とかどーでもいいけど生まれた時から俺が上」(FEBB-THE GAME IS STILL COLD feat.A-THUG)

 日本ヒップホップ史上最も優れたグループがSCARSであることは既に議論の余地のない確定事項であり、彼らのリーダーに君臨するA-THUGこそが史上最も優れたラッパーであることは言を俟たない。少なくとも私は確信を持ってそう言い切れるし、YouTubeのコメント欄のような壊滅的にセンスの欠如した彼への難癖に傾ける耳は持たない。

 混じり気なくどこか愛嬌のある声色と絶妙に緩急のあるフロー、あまりにも実直過ぎるリリックは──時に首を傾げざるを得ない内容を含むことは大いに認よう(「とんかつ 婚活 強盗に恐喝」)──極めてシンプルが故の新たな視点と、よもやナンセンス紙一重の到底予測のできない驚きを私たちの前に提示する。同時に、A-THUGがいかにして最先端のスタイルを追求し、彼のオリジナリティに変換し続けているかを窺い知ることができる。

 川崎南部に生まれ育ち、ハスリング:違法薬物取引に生き方を見出したハスラーとしてのストリートライフが彼のラップ表現の基盤だとするならば、自由闊達に本国のヒップホップを引用し、誰よりも早く最先端のスタイルを消化する彼の在り方は必然だろう。

 その成立から(あまりに冗長な議論の有効性はどうあれ)常にアメリカの追及・差異化を迫られ続ける日本ヒップホップにおいて、「日本のラッパー」のロールモデルとしてA-THUGをいま一度捉え直すことはできないだろうか。なぜなら、ハスラーとは常に新しい情報と潮流に耳をそばだて、その真贋を見極めた上で最前線に身を据えることによってOUT-LAW(無法者)として直面する危機を回避し、未知なる可能性を齎す「REALな存在」としての自己を規定し、拡張するからだ。

 DIPSET或いはG-UNITの影響下にあったNYサウンドからキャリアをスタートさせ、2010年代前半にDJ KENNと共にシカゴドリルを実践し、その後DAWG MAFIA FAMILYとしてアトランタトラップを異形の日本語表現に開花させたA-THUGの功績とは同時に、彼が名実ともに優れたハスラーである何よりの証左だ。

 海から海へ、自在にローカルとグローバルを行き来することで独自の経済圏を創造するハスラーとは即ち法と道徳を疎外し、社会から疎外されるOUT-LAWそのものだ。OUT-LAWは国境を持たない。A-THUGの愛おしくも底の見えないキャラクタとは、それらOUT-LAW像の具体化に他ならない。

 彼がしばしばイコンとしてトニー・モンタナ=カリート・ブリガンテ=アル・パチーノをリリックに召喚することは必然だ。つまり、下部構造のストラグルに伴う痛みと栄華、決して拭い切れないイリーガルの匂いに充ちた物語を生きるということ──その内部は宿命的な毒性を伴うだろう──を、軽やかな自然体のままに彼は引き受ける。優れたスケートボーダーが板と車輪を生来から備わっていた身体そのものかのように自在に操るが如く、確かにあったはずの失敗と再試行の痕跡を掻き消してみせるような天性の資質として。

 OUT-LAWは秩序を破壊する者としての烙印と共に社会の外側に追いやられる一方で、時に誰よりもスワッグに溢れた存在として畏怖される「俺は愛されるよりも恐れられる/親しまれるより敬われる(T.O.P-Still Real feat.MARY JANE)」。

 彼らOUT-LAWがラッパーとして表舞台に立つということはつまり、その両義性を仮託された存在として幾重にも入り組んだ構造の盲点を暴き、私たちの眼前で軽々と再定義するということだ──とまで言い切り、何度でも彼が最高のラッパーだと言い切ることに格段の躊躇を必要としない理由は、A-THUGが十年近く前にラップしている。

「大丈夫君らのBOYとGIRL/リアルな奴は俺を認めてる」(A-THUG-BLOCK HUSTLERS)

 2021年10月現在、A-THUGはニューヨークに在住しているそうだけれど、心から純真に彼のストリートライフを謳歌していることはKATO JACKSONの撮影によるYouTubeチャンネルで垣間見れる。偉大な存在がストリートに根差し、そのあまりにも大きな愛と輝きを存分に溢れさせていることが本当に有難い。